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元結と水引の歴史
水引を作る大本の紙(水引原紙)をコヨリ状に したものに様々な方法で色付けをした細い紐をが水引紐です。
ここでは水引紐の歴史と、弊社がある長野県飯田市との関係などをご紹介します。
寛文12年(1672)、飯田藩主、堀美作守親昌(ほりみさかのかみちかまさ)が、丈夫で水にも強いと高く評価されていた飯田台帳紙を活用し、付加価値の高い元結製造を奨励。
これが元結のはじまりと言われています。江戸時代の初期より飯田藩主の奨励により、地元の優秀な和紙を利用した殖産興業としての元結製造がはじまりました。
桜井文七の招聘を期に、桜井文七の指導により、飯田藩内に住む下級武士の貴重な内職仕事として元結扱きが始まり、生産量も次第に拡大。脇差を差し、丁髷姿の武士達が、元結を扱く姿は、飯田藩の殖産産業にかける意気込みが想像されます。
飯田和紙の開発を期に、その上質な和紙により製造される元結をもって日本一の消費地である江戸に販路拡大を目指し進出。
生産が軌道に乗ると、桜井文七を筆頭に、江戸芝日陰町に直営の専門店を構えました。花柳街の吉原で、飯田元結は美しいとの評判を得る事で、江戸での人気を確立。
こうして飯田元結の拡販に務めた桜井文七は、飯田の元結の名声を「文七元結」というブランドにまで高める事に成功しました。
一方、飯田での水引製造が始まったのは、元禄年間(1700年頃)と推定されます。
元結製造は、藩の保護政策により、城下で問屋制家内工業として発達して行きましたが、水引製造は冬期間の農家の副業として始まりました。
特に、飯田の水引は、白くて色艶が良いとの評価から、販路が急速に広がって来ました。
その後、大正デモクラシーの時代を迎えると、女性の短髪、パーマ化洋装化の現象等により、元結生産は決定的な打撃を受け、このような社会現象により、高度な技術を持つ元結職人が、素材としての水引製造に参入しはじめた事により、大正末期から昭和初期には、水引の品質も格段に向上し、第二次世界大戦前の最盛期を迎える事になりました。
経済成長がはじまる昭和30年代、40年代になると、今まで手作業で行われていた水引も、そのほとんどが機械化されるようになりました。
機械化されることで、かつて盛況を極めたはざ場で職人が水引を扱く飯田の風物詩は、時代の流れともとにほとんど見る事ができなくなりました。
大橋丹治では、ほとんど手作業で水引商品をつくっております。(水引自体は機械で製造したものを使用。)
機械を使わない事で、時間も職人の数も多くかかるのも事実でございますが、飯田伝統の水引を、歴史そのままに、職人の魂がこもった作品として、お手に取った皆様が満足頂けるよう、これからも手作りにこだわり作品づくりを続けてまいりたいと思っております。